1月1日に能登半島地震がありました。能登は信仰心の厚いところです。しかし、地震で家がつぶれたり、火事で家が燃えたりしたら、浄土真宗の門徒の人でも心が乱れ、人に迷惑をかけるのです。
うちの門徒の大学生が輪島にボランティアに言ったそうです。体育館の避難所だったそうです。そこではTVには映せない光景があったそうです。それは、トイレの順番を守らないおじいちゃんがいたそうです。また、家庭の四角いスペースが、「うちは5人家族だ。どうして2人家族とそれが同じなのだ。」とか「子供がいる家族に、子供の声がうるさくてねれない、」などのトラブルがあったそうです。
これは平常時は仏にお参りして、最高の幸せ(さとり)を味わっておりますが、異常時(火事、地震などの家を無くしたとき)になると、こころが乱れて、人に迷惑をかけるのです。良寛さんというお坊さんがいっていました。手毬の良寛さんです。
これを無くするときは、100%の悟り、最高の幸せを得るときはたくさんのお参りをしないといけません。
浄土真宗の門徒は、朝、「今日一日頑張値ます。」「夕方には、今日一日平穏でした。ありがとうございました。」と仏に参りしています。それに加えて、道でお地蔵さんにあったら、何でもいいですから、感謝のお参りをお願いします。「昨日の晩御飯はおいしかったです。ありがとう。」「先日、同級生とあって、楽しい昔話ができました。ありがとう。」「先週。孫と食事できました。かわいかった。ちょっと、お金かかった、でもよかった。」なんでもいいです。感謝のお参りをおねがいします。「昨日、ぼけて、息子に迷惑かけた。お許しください。」(宗教的罪を掬い取ってくださる。)でもいいです。なんでもいいですから、お参りおねがいします。
家がつぶれてなくなっても、心が乱れないようにするときは たくさん、たくさん仏にお参りしないといけません。
お釈迦様は人間の苦しみを「生老病死」といいました。生苦は愛する人との別れ、愛されないこと。これはわかりますね。老苦は。足腰が痛い。顔にしわが増えた、等。これもわかりますね。病苦は内臓が痛い。骨折して痛い、等。死苦は死後、どこの世界に行くかわからない。「地獄極楽の地獄に行くかもしれない。地獄にいくのはいやだ。」の苦しみ。これが1番の苦しみです。
死後の世界は、自然科学的にはありません。心理学的にあります。昔は西方浄土って言ってました。西の方に極楽はあるっていってました。これは3000年前の言葉です。3000年前だから、それでよかったのです。しかし、現代では西の方に向かったら、もとに戻ってきます。ですから、今ではこれはいいません。また、死後の世界は100人中100人が死後の世界があると思うのです。心理学です。
さて、ほとんどの人は「小さな生き物を大事に」「人の心を傷つけない」の心がありますね。これはお釈迦様の教えです。ですから、これがある人は極楽浄土へ行くのが決まっています。よって、自分の死を想像しても怖くないはずです。ぐっすり寝ているはずです。しかし、東京の金持ちは、お金が1番ですから、仏教なんて知らないって、いいますから、自分の死を想像したら怖いのです。「自分が死んだら、極楽ヘ行くのか、地獄に行くのかわからん。地獄にいったらどうしよう。怖い」と思うのです。毎晩、毎晩、怖い怖いと思うのです。毎晩、毎晩ですよ。どうですか。恐怖ですよ。そして、寝れないから、液体睡眠薬を3本飲んで寝るのです。
私は見ました。東京のベンツが犬をひいたのです。犬はキャンキャンと泣いていました。そして、また、ベンツの前に出たのです。そうしたら、ベンツがまた、犬を引いたのです。東京の金持ちには、小さな命を大事に、がないのですね。仏教がないのですね。
私たちは、仏様にお参りしていますから、「生老病死」の苦しみを味わうことなく、最高の幸せを味わっているのです。仏教は最高の幸せを与えてくれているのです。仏教のいいところです。どうですか。
仏教を次の世代に伝えましょう。
仏教の知っている私たちの最高の幸せはこうです。愛する人と別れたとき、その時はつらいですが、たくさんお参りすることによって、つらさが半分になり、もとに戻って、前向きに生きていけます。老病は、人は年取って病気になって、死んで行くんだと思っているでしょ。思っているはずです。(これ無常の教えの成果です。)苦しみはありません。これが悟りです。死は、私たちは仏にお参りしますから、極楽が決定しています。ですから、死を想像しても怖くないはずです。いいところに行くことが決まってますから、気にならないのです。考えないのです。苦しみはありません。
心も頭もすっきりとしてお参りしましょう。
ある大きな会社の社長さんです。「わたしは死んだらゴミになる。」と奥さんに言ったそうです。奥さんは「ごみになるの?わたしはゴミにお参りするのですか。」この会話を聞いてどうお思いますか?
人は死んだら科学的にゴミになりますよ。いや、正確には、肉体は燃やします。骨はお墓にいきます。お墓にいって、残った家族がありがとうと感謝のお参りの対象になります。これは仏以外にありません。科学的にはゴミかもしれませんが、心理的には、仏になるのです。
最近の人たちは、合理的すぎます。どこかの文章でかきましたが、祖母「振袖かってあげるから、成人式に出ては。きっといいことあるから」孫、「忙しいし、お金もないし、出席しない。」成人式が終わって、孫「おばあちゃん。成人式出て、よかった。友達と会えて、楽しかった。」人には合理的な面と情緒的な面、両方があります。その2つがそろって、人は幸せになるのです。
先の、社長さんは合理的すぎるんですね。
親鸞聖人は鎌倉時代の承久の変で越後に流罪となりました。それは後鳥羽上皇のお世話係の女性が浄土宗に入信したのがきっかけでした。「上皇様、世話係の女が法然のとこに出入りしています。どうしましょうか?」「なにーーそれは許せん。法然たちを流罪にせよ。」もちろん、法然上人も土佐の国に流罪となりました。しばらくして後鳥羽上皇が天下取りに敗れ、隠岐の島に流罪となりました。無常ですね。その時です。法然上人の弟子の聖覚が上皇に「唯信鈔文意」を説教して、浄土宗に入信し、極楽浄土にいったのです。
どうですか皆さん。自分たちを傷つけた人を救ったのですよ。皆さんもこのことを知らず知らずのうちに、しているはずです。「あいつ、おれのことを馬鹿にしやがって、倍返しにしてやる、」といっても「あいつも何かつらいことがあるのだろう。」と許していませんか?許しているはずです。
わたしもそうしてるんですけど、今度も、そうにしようと思っています。このように自分を傷つけた人を許す、すなわち、仏の心を持ちなさいといっているのです。「小さな生き物を大事に、人の心をきずつけない。死ぬのをわきまえなさい。人を許す。」広い、広い仏の心を持ちなさいといっているのです。
これは蓮如上人の言葉です。この世の中、競争の世の中です。人に勝とうとするのが常ですが、現代仏教流にいえば、「仏に感謝していれば、成功はおのずとついてくる。」です。
単純に競争にかって、出世したいと考えますが、そう簡単にはいきません。能力があればできますが、同時に、運がないとできません。簡単ではありません。
仏教では、感謝のおまいりをすれば、人の信望を集め、運が味方し、能力があれば、成功が待っているのです。能力がないとだめですけどね。これ間違いないです。67歳のわたしが、たくさんの人を見て、思っています。
人の心を傷つけて、裏切って、出世しても空しいものです。たまに、「世の中そんなに甘くない。」という言葉をききますが、能力があれば周りから感謝されて成功しますよ。お知らせの「人にまけて、信をとるべき。」をクリックしてください。わかりやすい話がのってます。
私は朝、15分散歩して15分ジョギングをやっています。それで思うのですが、みんなは自分は運動不足と思ってるんですが、なかなか体が思うように動かずに、だんだんとそれが弱ってきて、走れなくなり、歩けなくなり、しまいには寝たきりになります。自分ではその不足は理解してるのですが、体が理解してないのです。
これは運動をする習慣が身についてないからです。それが身についてないから、運動ができないのです。これを仏教では業縁といいます。昔は「業の深い人だな。」っていっていました。たとえば、泥棒が改心してまっとうな人間になりました。しかし、また泥棒を始めました。このような人を「業の深い人だ。」っていったのです。
習慣というものは恐ろしいものなのです。こんな話もあります。
刑務所に23年入っていました。刑期を終え、娑婆に出てきて、仕事につきました。しばらくして、仕事がきつくなり、無銭飲食をして、また、刑務所にもどりました。わざと無銭飲食をして、刑務所に戻ったのです。三食昼寝付きの刑務所が楽で忘れらなくて、わざと戻ったのです。
このように頭で理解しているのですが、体が理解していないのです。これを仏教では業縁といいます。みなさんはどうでしょうか?
あるおじいちゃんの話です。彼は世話好きで仲人をしていました。
どこからか、きれいな女性の写真を手に入れて親戚の家へもって行きました。「写真を持ってきました。おかあさんどうかね、長男さんに。」「仕事から帰ったたら見せますから。」ということで帰りました。しばらくしてから、電話がありました。「まだ、結婚したくないからいいです。」とのこと。またしばらくしてから、どこからか、写真を手に入れてまた、親戚の家へ行きました。「きれいな女性の写真です。息子さんにどうかね。」そうしたら「ごめーん。息子は婚約しました。」とお母さんがいいました。それを聞いた瞬間、「なんで。それを早くいわんがいや。」と怒ってしまったんです。お母さんの顔を見るとびっくりした顔をしていました。あーーーーわたしはなんてことをしてしまったんだろう。頼まれてもいないのに、怒ってしまった。彼女のこころを傷つけてしまった。仏教は怒ってはいけない。人のこころを傷つけてはいけないなのに。-----と思ったそうです。
彼は家に帰り、仏壇でお参りしました。ーーー彼女の心を傷つけました。怒ってしまいました。失敗しました。----と。仏様は許してくれません。次の日もまた、----失敗しました。----とお話をしてお参りしました。仏は許してくれません。次の日もまた、仏壇にお参りしました。仏は許してくれました。
しばらくしてから、親戚の家へ用事があって、行きました。----おかあさんは怒ってないだろうか、不安だ。----玄関をあけたら、「あーーおじさんいらっしゃい。」笑顔で迎えてくれました。ーーーよかったーーーー
こんなことがあったそうです。これは信仰告白です。それは、人には言えない失敗です。わたしにもあります。この失敗を、宗教的罪を救い取ってくださるのが仏です。このようにして、前向きに明るく生きていくことができるのです。仏教のいいところです。最高の幸せを味わっているのです。
TV新聞で6月にアビガンの治験が終わるそうです。あと2か月です。それまで不要不急の外出は避けましょう。ようするに、遊びにいかない。友達と会わないです。アビガン治験で検索してください。出てきます。
なんだーあと2か月か、と安心しないでください。2か月をおろそかにすると、感染が拡大して、広がって、死亡する人が出ます。それを避ける意味でいままでどうり我慢しないといけません。
人間って、先が見通せれば、我慢もしやすくなります。あと2か月我慢しましょう。
うーーーーん。まさか、政府は治験が終わっても、承認をすぐにださいってことはないだろうなー。なんで政府が信用できないんだ!こんなのいあやだーーーー。すぐに出すべきです。命を大切にです。安倍さんは経済を重視してるみたいだ。こんなのいやだーーーー。
今回のテーマは宗教的罪(悲しみ)でしたね。主人公のそれは、幼いころ、友人を助けることができなかった。仏教は命を大切にするですから、友人の生きたいといういう気持ちを断ち切ってしまったから。これは宗教的罪です。言い換えれば、悲しみです。ドラマではこの悲しみは一生消えない、慣れていくしかないっていってました。真言宗的な言い方なのかな?仏を念じて罪を小さくしてくれるのかな?
浄土真宗はアミダにお参りすればその罪は救い取ってくれるから、悲しみは消えます。いや、一時的に消えます。また、悲しみを思い出してお参りし、悲しみは消えます。これの繰り返しです。前述とはちょっと違うね。
前述も、後述も、ともに、そのことによって、前向きに生きていけるね。ドラマの中でも前向きっていってたね。
両忘=白か黒かで、争って苦しまない。ですね。自分一人で、頭の中で悩んで苦しまない、ですね。命は自分のものと思ってるんだね。
浄土真宗の門徒さんは、命を仏に預けているから、家族と話し合って決めてるね。苦しんでいません。たとえば、手術するかしないか、のときは医者の話を聞いて、家族と話し合い、決めてるね。苦しんでいません。
ドラマの中で、正義と命とどっちが大事みたいな、場面がありましたが、当然、命が大事です。これに対して、正義をおろそかにするのかって、意見が出ますが、大丈夫です。あの人は、また、別の場面で、命をおろそかにして、罪を犯し、罰を受けるのです。