< 光円寺の歴史 ・ 沿革 >

開山年代は不明であるが、当初は真言宗であったといわれている。

 

 文安元年(一四四四)当時の住僧観覚(かんかく)が浄土真宗に帰依し、本願寺の第五世「綽如(しゃくにょ)上人」の三男を迎え、法印権大僧都(ごんのだいそうず)「周覚(しゅうかく)」を推してその開基とした。寺には、この事を示す似影(じえい)「教如上人」があり、その花押(かおう)が現存している。

 

 第三世了玄の弟照護(しょうご)は、本願寺第八世「蓮如」に随って、文明年間(一四六九~八六)越前国吉崎に一宇を創建したがその後所々を移転し、福井西御堂町に移り、森本昭護寺(もりもとしょうごじ)と称した。

 

 蓮如の玄孫である第四世顕従(けんじゅう)は、一向一揆に加わって農民側に味方したために追われ、天文三年(一五三四)に井上荘浅田村(現津幡町浅田)に移り、元和四年(一六一八)には火災のため津幡村に移転した。この事を示す浅田山・津幡山という地名が残る過去帳が現存している。
 その後、慶安二年(一六四九)十村役亀田氏の招きにより現在地に寺領を受けて移住した。年代については、境内の椎や松の樹齢からみて享保年間(一七一六~一七三六)ではないかとの説もある。
なお、文化・文政(一八〇四~一八三〇)の火災によって、それ以前の過去帳は現存していない。

 

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