住職日記


「病院で念仏をーーーー」7話を見ました。

如実知自心が出てきましたね。「ありのままのこころをみる。」っていってましたが、正確には、自分のこころを知る、観るのが幸福になる道理である、という意味です。

 「人のこころは、ある時は欲望が支配し、人を傷つけ、自らも苦しむ。また、ある時、愛情、思いやりが支配すれば、人に喜びを与え、自らも幸福になる。このことを理解し、八正道を実践することによって、煩悩を滅し、悟り、最高の幸福を得る。」ですね。

 この八正道を実践すればーーーといいましたが、これがなかなかむつかしいのです。厳しい修行をしても欲望煩悩は消えないのです。そんならや―ーーめた、になってしまうのです。もとの黙阿弥です。

 それでお釈迦様は阿弥陀仏にお参りするなら、浄土に行けるという浄土教を私たちに示してくれたのです。煩悩欲望の1番強い、死の恐怖を開放し、十善行を実践し、阿弥陀仏にお参りし、懺悔することによって、悟りを開き、最高の幸福を味わうのです。

 うううんん。なんていっていいのかなーー。一時、煩悩欲望に身をまかせ、人を苦しめるのですが、仏にお参りすることによって、懺悔することによって、仏に罪を許してもらい、また、悟りの境地、最高の幸せに戻るのです。むつかしい言葉で「不退転位に住する」といいます。「不断煩悩得涅槃」ですね。

 視聴率、二けた行かないだろうなー。みんな見ないだろうなー。

「病院で念仏をーーーーー」6話をみました、

 おじさん「治療をしないでくれ。」なぜなら、余命は短い。子供に迷惑をかけるから。元カレ「余命は短いから、死なせくくれ、死なせてほしかった。」妻は若いから、こどももいるから。

 人はどうして、こうも計算して人生を考えるのだろう。子供に迷惑をかけるって、なにいってるんだよ、経済的に迷惑をかけたくないんだろ!ちがうでしょ。子はできるだけ長く生きてほしいんだよ。本能だし、愛情だし。子は親は永遠に死なないとおもってるだよ。この愛情に報いないといけない。ドラマの「寂しさを早くから、味わわせないでほしい。」。そうなんだよ。

 ううんn「経済的に迷惑をーーー」これも愛情です。しかし、長く生きればいいこともあります。一生懸命生きでだめなら、それでいいんです。子も納得する。納得する。一生懸命がいいんです。男の子も女の子の同じです。

 こんな話がある。あるお父さんが全身がしびれる難病指定になって、わたしがお参りにいきました。そのとき、私はいいました。「孫が結婚式の時、名簿に祖父、祖母の名前があったら、うれしいんだよ。」って、そしたら、娘さんが。そうそうとうなずいていました。これですよ。

 人の生は計算だけじゃない。愛情がからんでくるのですよ。一生懸命生きる親の姿をみて、子は愛情を感じ、病気の親を看病することで、親は愛情を感じ、子は愛情を与えることができ、自らも愛を与える喜びを味わうのです。愛は相乗なんですね。

第5話「病院で念仏をーーーー」みました。

冒頭主人公と師匠の会話「反省はしますが、後悔はしません。」それに対して、「暴力をふるって、だれを救ったんだ」この会話にはドキッとした。わたしもそれでスキっとしたほうですから。だれも救てないね。しかし、よく考えるとこの救急医療班のメンバーは全員悟ってるといえる。(浄土真宗と悟りを参照)悟っているんだから、救いも関係ないことになる。原作者は悟りの定義をどう考えているんだろう?

 臨終の場面があったね。理想的な臨終だね。現実は、忙しいとか、遠いとか親族は全員集まれないね。ほんとのところ、時間があれば、近ければ、集まっていると考える。みんな優しいから。仏教があるから。東京都会はわからない。

 ううんnどうかなーーーーこの田舎でも情は薄くなってる。

 金沢でも、親戚付き合いがなくなってる。昔は頼れるのは親戚だった。親戚からの借金はご法度になった。困ったことがあったら、弁護士になった。親戚の必要性がなくなってる時代だね。今は家族の問題は誰に相談してるんだろう。親戚じゃなくて友達なのか?

 後半で、死に方の問題があったね。「死に方を選択出来たらいいね。」って発言があったね。そんなのできるわけないね。できないことを望むのは悟ってない証拠になりっます。わたしの考えは、教えを守って、仏にお参りし、毎日を懸命に生き、その先に死に方があると考える。最高の死に方が待ってるね。

「病院で念仏を唱えないでーーー」第4話みました。

いいですねーーーーーー。最高です。脚色もいいですね。仏の教えと現実のはざまを描いているね。「この手は命を救うためにある。」でも現実には、限界がある。わたしも保育園でその現実に遭遇している。

 病人の家族の意向が重んじられる。この場合、家族が手術しないでくださいといえば、それはできない。限界ですね。

 スカッとするね。主人公が最後にパンチした。これはスカッとするね。現実は暴力になるから。傷害罪になる可能性がありますね。70年代まではそのパンチしてよかった。いい時代だった。今はだめね。わたしも、殴りたいときあります。または、おこりたいときありますよ。でも、我慢してる。このシーンみて、すかっとしてる人たくさんいるかなーーー。視聴率みたら、だいたい、わかるね。8%じゃ。たくさんではないね。

 幼児虐待がでてきたね。こころを救うですね。それを救いにいくのかな、って思ったら警察が来て、逮捕されそうになっていたね。わたしも警察はこなかったが、間違われた。その時、「まどかの園長先生や—」と助け船があった。よかった。

 次回は、永久出勤停止だって。首、解雇ではないんだ。現実なら解雇だね。まーーここはドラマです。この場合、裁判にはならないね。脚本ではどうやって、復帰させるのか。楽しみです。

 わたしの手は、「こころを救うため」にあるだ。それを救うているんだろうか。救っているね。なんとなくが、そうか、と思ってくれていると判断しています。

 今年、説教テーマは「信仰告白」です。これも精査しないといけない。先輩に相談する。こんど、訪ねて行こう。師匠は高齢でダメです。遠いし。いや、遠ければ手紙で聞けばいいね。あ、病気だった。

「病院で念仏をーーー」3話を見ました。

うんん。よかったんじゃない。このドラマをみて、少しでも仏教に興味をもって、もらったらいいんだけど。地方はちゃんと仏教は生きている。みんな、「小さな生き物を大事に」のこころもってる。ただ、意識してないだけ。仏教徒だって、意識してないだけ。意識しないといけないんだ。

 生老病死。老病はわかるね、死は「死後どこへ行くんだろう、地獄はいやだ。極楽がいい。地獄にいったら、どうしよう。」っていう苦しみです。生は「愛されていない」苦しみ。これはあるなー。よく見かける。そして、ドラマにあった、行き場所がない。居場所がないっていう苦しみ。学校、職場、事業。など。これらにとらわれて、苦しむ。周りが見えなくなって苦しむんだね。これが煩悩ですね。

 ドラマの最後では、患者さんの心をすくっていたね。とらわれから解放されて、「ガムシャラに生きていきます。」だ。

「病室で念仏をーーー」をみました。

結論からいうとまあまあよかった。

このドラマの題をみて、どうせ死を避ける内容だと思ったが、いかんせん、死を見つめていた。「死んだら、浄土に送ってやる。」というセリフがあった。死後の世界を肯定してるね。

東京のほうは、仏の教えがないようですが、(救急車が来ても、とまらない 。譲らない。)死を汚らわしいと思ってる人が多いようです。ドラマの冒頭にもそのシーンがあったね。

ドラマの中で、世間の常識と仏教のそれがぶつかってた。内容はわすれた。

視聴率はまだ、でてないって。原作は読んでないが、この手のドラマは、だんだんと、仏教色が薄れて、お涙ちょうだいになっていくと思う。

「死と心を救えるか!」っていう、テーマはいいなーーーーー。心を救うのが仏教です。

仏教はいい(暴れ馬)

生経というお経の中に出てくる話です。

ある時、暴れ馬がいました。暴れ馬は主人が背中に乗っても、前足を上げたり、後ろ足を蹴ったり、背中を揺らしたりして彼を落とそうとしていました。起こった、主人が小屋に閉じ込め、エサを与えず罰を与えていました。馬は「どうしていじめるんだ。何もわるいことしていないのに、いじっかしいのに。」と思っていました。馬はやせ細り、元気がなくなりました。馬は思いました。「モーだめだ。主人のいうこを聞こう。」と思いました。そうすると、気持ちが楽になりました。そして、主人を背中にのせて、走りました。エサをもらい、元気になりました。

 その馬が、仔馬を産んだのです。その仔馬もまた、暴れ馬でした。そして、同じように主人を背中から落としていました。当然、主人は、罰として小屋に閉じ込め、エサを与えませんでした。同じように「どうしていじめるんだ。なにも悪いことしていない。ただ、いじっかしいだけだ。」と思っていました。仔馬はやせ細り、元気がなくなりました。そして仔馬は母馬に助けを求めました。母馬はいいました。「お前の災い、憂いはお前の過ちだ。主人のいうとおりにすれば、なくなるだろう」といいました。仔馬は母の言う通りにして元気になりました。

 この話はパッと見れば、長いものにまかれろ。ととれますが、これは経典の話です。主人を仏、馬を私ととればいい話です。仏の教えを守れば、災い、憂いが亡くなり、幸せに暮らせる。ととれます。その通りなのです。仏教いいのです。

嘘も方便(祖父の死)

インドの話です。スジャータという少年がいました。スジャータは勉強をしなくって、父親にすごく叱られました。気を落としていた彼に祖父が、「お前の父も勉強が嫌いだった。お前も父親のようになれるよ。」といったそうです。これもいい話ですね。

 しばらくたって、祖父が病気で亡くなったそうです。それを見た父親が号泣し、毎日、毎日泣いていたそうです。それを見た、スジャータがこのままでは、父親は病気になってしまうと考えたそうです。それで、スジャータは死んだ牛に「水をお飲み。」「草をお食べ。」と何回も口に運んだそうです。それを見た父親はスジャータは気が狂ったんだと思い「どうしたんだスジャータ」といって抱きしめたそうです。抱きしめられたスジャータはにこっと笑って、父の顔をみたそうです。その顔を見た父は「すまない、私のことを心配して、演技をしたんだな。」といったそうです。

 これが嘘も方便です。わたしもこれを使ったことがあります。嘘で命を助けることですね。皆さんも経験があるともいます。

 ちょっとむつかしいですが、浄土真宗の教えも方便です。不断煩悩即涅槃、煩悩を断ぜずして悟りを開くですね。すべてのことに感謝し、教えに失敗したら懺悔する。信仰の宗教ですね。

念仏を言い換えよう。

今までは、「なまんだぶ、なまんだぶ」といっていましたが、今度からは、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言おうと考えております。若い人にもわかりやすいし、こっちのほうが正確です。

 私たちのご先祖は「なむあみだぶつ」が言いにくかったんですね。それで「なまんだぶ」になったんですね。現代人は優秀ですから、「南無阿弥陀仏」って言えますね。

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とみなさん言い換えましょう。

智慧(即判断)

中国に司馬光という人がいました。彼は歴史家です。960年から1127年まで生きました。彼のエピソードです。

 彼が子供の時、水がめで遊んでいた友達が落ちました。彼はすぐに水がめを大きな石でわって助けたそうです。

 これには、いろいろな解釈ができます。水がめを割らずに助けるべきだった。とか、それでいいんだ。という解釈ができます。

 たいていは、水がめを割らずにと考えて、この命を助けられなかったといものになりそうです。物欲と救命のはざまになって迷うというものです。

 迷わず決断するのが知恵というものです。

 私たち浄土真宗の信者は、おかげさまでと感謝しています。煩悩の物欲はありません。すぐに、この水がめを割っているのです。